多様性は無理に「受け入れ」なくてもいい?
日本における「多様性」は、「受け入れる」こととセットで使われることが多い。「多様性を受け入れよう」のように。
本来、多様性は、「人にはいろんな考え方があるもんな」「自分とは違うもんな」と理解できればよいのであって、「受け入れなくてもいい」のではないか……と。
多様な個性を「受け入れる」のは、荷が重い といえる。
誰にだって好き嫌いの好みはあるし、誰にだって正義感はある。その正義が正しいのか、正しくないのかは別としても、自分の中にある苦手意識や正義感を無理に押し殺して、苦手な人を受け入れるのは、なかなかできることではないのではないか。
「私には苦手な人など誰一人いないし、すべての人を受け入れられる」という人は、もちろんすばらしいと思う。でも、それは重い。
では、何かいい思考の整理はないか?
「そこにいる」と認めることならできるかも
「そこにいる」「そこにある」ことなら認めることができるかもしれない。そう、自分の「中に」受け入れるのではなく、自分の「外に」置いておく感じだ。
もちろん、どんなに頭では理解できても、感情の方が強く働くことが往々にしてあるから、ちょっと「嫌だな」と思うことはあるかもしれない。でも、無理に「受け入れなくていい」のなら、「そこにいる」許可を、自分に出せるのではないか。
「今まで、私はそんな考えをしたこともなかったけれど、確かにそういう視点もあるよね。良い悪いは別として」のように、視点が広がる感じと言ってもいい。
私が6年住んだシンガポールは多様性が国の肝だったので「受け入れが強制」だった。その感覚からすると、日本の今は掛け声だけで実態は全くついてきていない印象だ。匿名のネット誹謗中傷などが多い。受け入れを実際に拒んでいる証左である。でもグローバル化とともにいきやすさを追求するなら絶対必須の文化でありスキルでもある。まずは自分がそれを実践していきたいと思う。