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「今日という1日は他の誰かが本当は生きたかった1日である。絶対に無駄にしてはいけない」 昨日、前職で同じ社宅でお世話になった先輩の奥様(47歳)の墓石に祈りを捧げ、改めて思いを新たにした。

今日という1日は他の誰かが本当は生きたかった1日である。

 進行性の症状を抱える障害者アスリートにとって、パラリンピックは「一生に一度」の可能性がある大舞台だ。出場の夢を果たせず2017年に21歳で亡くなったボッチャ元日本王者の高阪大喜さん。飲食店を営む両親はコロナ禍の苦しさに直面しつつも、「掛け替えのない機会を大切にしてほしい」と成功を願う。障害者の世界を広げてくれる「スポーツの力」を信じているからだ。

 高阪さんは生まれつき全身の筋力が衰える難病、筋ジストロフィーを抱え、車いす生活になった。ふさぎがちな日々を変えたのは小5で始めたボッチャ。障害があっても健常者と勝負できる競技性に、父達也さんは「自分の力で他人と競える喜びがあり、のめり込んでいった」と話す。

 利き腕のまひなど、症状の悪化にも負けず徐々に成績を伸ばしていった高阪さん。13年に東京大会の開催が決まると雄たけびを上げ喜んだ。母貴美さんは「目を輝かせ、『やったー、やったー』と、出場を誓っていた」と振り返る。症状が進行するリスクもいとわず、練習に打ち込む日々。リオデジャネイロ大会後の16年11月の日本選手権で初優勝し、パラ出場を視界に捉えた。

 その直後、運命は暗転する。17年3月、検査入院で肺炎が見つかり、1カ月後に控えた大会を欠場。その後も入退院を繰り返し、競技復帰できないまま、同8月に帰らぬ人となった。達也さんは「直前の練習で大喜は、神懸かった強さを見せていた。あの状態で試合をさせてやりたかった」と話す。

 ただ、悔いはない。「パラを目指せたことで、世界を目にし、多くの経験ができた。短くても充実した人生だった」。大喜さんが亡くなった後、体験会開催などボッチャの普及活動に取り組む。

 高阪さんの生涯を知り、借り受けた遺品の競技用具で練習を始めた男性もいる。「競技を見て、世界を広げる人が一人でも増えればいい」。それが貴美さんの願いだ。

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