エクセレントケア専属クリエイターのMです。
私は複数の障害と難病による後遺症を抱えております。
おまけに精神疾患も持っていて精神保健福祉手帳も持っております。
実は就職に至る迄16、7年も掛かったのです。
話の初めに申し上げれば目標に向かって行動し続ければ何年掛かっても良いのです。
その「行動し続ければ」必ず自分と良縁のある場所と巡り合えます。
特に中学時代は持って生まれた障害の特性で勉強も全く×、人間関係も全く×、その他何しても全く×で駄目だらけの生い立ちでした。
そんな全く駄目だらけの自分を少しでも覆したく、
家事も苦手なのに中学卒業後は介護福祉の専門学校へ進学しました。
在学中にホームヘルパー2級の資格取得したのは良いものも、
クラスメイトの子が次々と介護福祉のお仕事に就職して行く中自分は就職出来ないまま専門学校を卒業してしまいました。
19歳の頃は半年間の短期契約での工場での仕事(軽作業)に就職するのがやっとで、
周囲からはあれこれ詰られてしまうのでした。
そして20歳の頃に就職しては解雇されてしまってを繰り返してしまい‥‥、
知能検査を受けた所知的障害と発達障害が発覚しました。
その時私Mは「持って生まれた障害の特性で福祉の仕事は難しい」と言う見解が下りて、
その時は「今迄必死こいて来た自分が何でや‥‥?」と思いましたが現実と自分の特性を受け止めないといけませんでした。
21歳から22歳の時迄障害者の職業訓練学校で就活に励みました。
自分は重度のアスペルガーで知能も数歳児レベル。
おまけにコミュニケーション能力も自己管理能力も人よりとても弱くて、
当時は障害者枠で就活に励んでも何処の実習先でも断られてしまい、
就活に躓き続けました。
しまいには「処遇困難」として当時の就活支援者にも見捨てられてしまいました。
当時は障害者枠でも一般就労出来る様なレベルでは無かったとなって就労継続支援B型施設を利用する様にもなるも、
何処の施設も適合出来ずに暫くはいろんなB型作業所を経由する様な日々でした。
23歳から31歳の頃迄今迄のストレスが爆発する様にちょくちょく作業所に通いながら好きなことばかりする日々でした。
そして悪夢の出来事が起こった31歳の頃、
極度の体調不良が続いた日々の中遂に救急搬送されてしまい、数ヶ月病院で生死を彷徨って奇跡的に生還果たしました。
要は難病を発症してしまいました。
それから3、4年いろんな方のお力を借りていろんなリハビリに励んで、
その後は障害者枠の就労移行支援施設を2年半利用しました。
そこの施設は吃驚する程気さくな利用者さんも職員さんも多くて、
雰囲気もとても良くて今迄の通所生活の中で一番適合出来て、
施設を利用していた当時は壮絶な生い立ちだった自分にとって遅い青春でした。
就労移行を利用しているからには最終目的は就職でした。
甘えた発言ですが自分には就職は実現困難な話だったと受け止めて、
ネットビジネスで生計立てて行く事も考えていた時期もありました。
弱音を吐く事になりますが、
本当に就職出来なかったらのシチュエーションも予想して自分なりに覚悟もしていたのでした。
それでも駄目元とは覚悟の上で就活マニュアルの情報を読み漁ったり就活での身だしなみを研究する事に一時期は没頭していました。
そしてエクセレントケアさん兼ハートフルサンクさんへの面接に挑みました。
そしたら吃驚する程和気藹々とした雰囲気で面接は進行して行きましたし、
普段からネットツール、デジタルツール、様々なアプリを駆使している私なので、
丁度ハートフルサンクさんとしてはデジタル媒体に強い人材を求めていたらしく、その時私の様な人材がビンゴしたそうです。
結果は勿論無事に内定。
そして今の職場さんは障害も体調も障害持つ上での特性も十分に考慮して下さり、
今の自分の得意分野を職種に活かして下さり、
こんな状態の私でも雇用して下さったハートフルサンクさんには感謝の日々です。
話の最後に私は「行動」と言う言葉が大好きです。
努力も勿論大切ですが先ずは行動に移してみる事です。
何が足らなかったか等も行動に移してからじゃ無いと分からない事も沢山ありますし、
その足らなかった「何か」を補って行く事も行動です。
「行動」と「善業」の積み重ねはご自身の賜物になって決して裏切る事もありません。
今は私は障害と難病で本格的な介護業務に携わる事は出来ません。
簡単に言えば人様の介護は出来ません。
だけど施設の専属クリエイターとしてこれからも業務に一生懸命従事して行きたいですし、
今は別の形で福祉に貢献出来ればとても幸せです。
ご拝読誠に有難う御座いました。